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菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書で以下の説を述べている。
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。
屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。
壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。
義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないのである。
佐藤進一
佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。
上横手雅敬
上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している。
頼朝が義経を平家追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河は義経の治安維持活動に期待して検非違使・左衛門尉に任じた。しかしその結果、義経は後白河の側近に編成された事になり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経を利用して後白河を挑発するためであった。頼朝は後白河を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつける事に成功したのである。
また伝説の義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』の義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂の『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経の心情に立ち入っている記述が多く見られ、「判官贔屓」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さを隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と政子に対し、狭量で頑迷な頼朝という描写は悪意的なものがある。また、義経を讒言した梶原景時を悪人として断じている。景時は北条氏によって幕府から追放された人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図を作り、源氏から政権を奪った北条氏の立場を正当化していると見られる。
元木泰雄
元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に付き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。
挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。
義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。
合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。
頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。
義経は頼朝追討の院宣を得たにも関わらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与える事が出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。
退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
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^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
^ 鞍馬山で天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受けたという伝説は、平治の乱で敗れたのちに、治外法権の地でもあった寺院へ僧や僧兵として落ち延びた源義朝の郎党たちによるものと考えられる。
^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
^ 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。
^ 『平家物語』『源平盛衰記』による。信頼性の高い『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。ただし、よく義経の卑怯な戦法として語られる水夫と船頭を射殺した話は、『平家物語』でも義経が命令したという場面はなく、また史料にも無い話である。
^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにも関わらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承ってるものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います」
^ 「私は兄上の代官として、朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、父の仇を討って名誉を回復しました。当然賞賛されるべき所を、思わぬ讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく涙にくれております。生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まることはありませんでした。諸国を流浪し所々に身を隠し、身分の低い者に仕える事もありました。しかし機は熟し、平家一族の追討のため、上洛し木曾義仲を誅し、平氏を傾けるため、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも厭わなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるがために他なりません。五位検非違使に補任されたことは当家の名誉であり、希なる出世です。他に何があるでしょうか。これを兄上に取り次いで下されば、貴殿(大江広元)は必ず一門と子孫を栄えるでしょう」(要約)
^ 近年の研究では、義経が平家追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている(上横手雅敬『源義経 流浪の勇者』P43、44、元木泰雄『源義経』P129、130 三日平氏の乱参照)。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者亀裂の決定的要因であるとしている。P154-156 )
^ 安田元久『源義経』P164、178
^ なお、『延慶本平家物語』によれば、義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後都に戻ったとされている。また、現存する「腰越状」と伝えられるものへの真偽を疑う説もある
^ 甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』P11、小学館より。
^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている。(『平治物語』京師本)
^ 判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い。
関連項目
史料
『吾妻鏡』 鎌倉時代末期に編纂された歴史書
『玉葉』 当時の大臣である九条兼実の日記
古典
平治物語(軍記物語)作者不詳 成立 - 鎌倉時代前期
平家物語(軍記物語)作者不詳 成立 - 鎌倉時代前期
源平盛衰記(軍記物語)作者不詳 成立 - 鎌倉時代後期?
義経記(芸能軍記)作者不詳 成立 - 室町初期
天狗の内裏 作者不詳(御伽草子)成立 - 室町初期
壇ノ浦夜合戦記作者不詳 成立 - 江戸中期-後期
古典芸能
八島(能)作者「世阿弥」成立 - 室町時代
船弁慶(能)作者「観世信光」成立 - 室町時代
安宅(能)作者「観世信光か?」成立 - 室町時代
義経千本桜(人形浄瑠璃・歌舞伎)作者「二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳」成立 - 延享4年(1747年)
一谷嫩軍記(人形浄瑠璃・歌舞伎)作者「並木宗輔他」成立 - 宝暦元年(1751年)
勧進帳(歌舞伎)作者「並木五瓶(ごへい)」成立 - 天保11年(1840年)
常陸坊海尊(演劇脚本 作者 秋元松代)成立 - 昭和32年(1957年)
史跡
高館義経堂(岩手県平泉町)義経最後の地とされる高舘に堂が建てられ、木造の義経像が安置されている。
判官森(宮城県栗原市) 義経の胴体が葬られたとされる。
黒崎城(宮城県名取市)義経が奥州藤原氏を頼り、落ち延びた際に『行敬』と名乗り、住んでいた居城とされる。
義経岩(富山県高岡市) 義経伝説の残る大岩。
満福寺(神奈川県鎌倉市)義経が腰越状を書いたとされる寺。
白旗神社(神奈川県藤沢市) 義経の首が葬られたとされる。
鏡の宿(滋賀県竜王町) 平治物語で義経元服の地とされる。
鞍馬山(京都市左京区) 稚児として預けられた鞍馬寺、天狗修行の伝承がある僧正ヶ谷などがある。
岡城址(大分県竹田市) 緒方惟栄が義経を迎える為に築いたとされる城址。
銅像
石川県小松市、安宅の関跡にある義経・弁慶・富樫の像
静岡県伊豆市、鹿山公園の源義経像
京都府京都市、五条大橋そばの牛若・弁慶像
山口県下関市、みもすそ川公園の源義経像
徳島県小松島市、旗山の山頂にある源義経像
祭祀
源氏まつり
藤原まつり
大衆文化
源義経が登場する大衆文化作品一覧を参照
その他
判官
国鉄7100形蒸気機関車 - 名前が愛称として付された
俊乗房重源 - 鞍馬流(義経流)の門人、義経流を陰流に改めた。円明流流祖 武蔵円明流の始祖。